日比谷をエンターテイメントの街にした男 小林一三
3月29日に東京ミッドタウン日比谷がグランドオープン、ビル内にはTOHOシネマズ日比谷(11スクリーン)が開業、隣接する東京宝塚ビル地下の2スクリーンと合わせ13スクリーンのシネマコンプレックスが誕生しました。既存のTOHOシネマズシャンテ(3スクリーン)と合わせて日比谷の街に16スクリーンの映画館が出来たことになります。
映画が隆盛を極めた昭和30年代、この一角には日比谷映画、有楽座、スカラ座、千代田劇場、みゆき座という映画館5館と東京宝塚劇場、芸術座、日生劇場、東宝演芸場という4つの実演劇場が立ち並んでいました。それらの建物は日生劇場をのぞき再開発により一新され、新しい東京宝塚劇場、シアタークリエという2つの演劇劇場が生まれました。形を変えながらも日比谷はずっとエンターテイメントの街として生き続けてきたわけですが、新シネコンの誕生でより一層その色が濃くなり、多くのお客様の集まる街になっていくことでしょう。
日比谷をエンターテイメントの街にするという構想は株式会社東京宝塚劇場(東宝株式会社の前身)の創業者、小林一三にはじまります。関西で宝塚少女歌劇団を成功させた小林は東京で宝塚を上演する自前の劇場の建設を決意し昭和7年8月に株式会社東京宝塚劇場を創設します。東京宝塚劇場は昭和9年1月1日、月組公演レビュー「花詩集」他で華やかにその幕を開けました。株式会社東京宝塚劇場はさら日比谷地区に日比谷映画(昭和9年2月)、東宝小劇場(昭和9年9月)、有楽座(昭和10年6月)を開業、隣接する有楽町・丸の内地区の日本劇場、帝国劇場も傘下に加え、街一帯を健全な娯楽を提供する場として作り上げました。小林はこれを丸の内アミューズメントセンター構想あるいは有楽町アミューズメントセンター構想と名付けました。小林の夢は86年の時を超えて受け継がれているのです。
(玉木淳一 東宝株式会社総務部シニアマネージャー)